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2009年3月

090327 教え子とメール

昨夜、というか真夜中の0時に最初に担任したクラスの子からメールが届いた。そもそも彼がなぜ自分のメアドを知っているのかが不思議だが、大学合格の知らせだっただけに、一気に自分の頭の中にもサクラサク。年度末休業中をいいことに酒を飲みながらテレビを見て浮かれていた頭がヒートアップしてしまった。


それからしばらくメールのやりとり。いやぁ、おめでとう。4月から遠く離れた地で過ごす彼はもちろんのこと、お家の方はさぞやもっと寂しいことだろう。


驚いたことに、彼は大学入学を控える今から大学院のことを見据えていた。今の高校生はこんなに見通しを持っているものだろうか、と感嘆した。なんでも物理を学習したいのだそうな。すごいなぁ。文系人間の自分にとっては未知の領域である。


今夜は地元で飲み会。なんだかうれしい気分で酒が飲めそう。

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090325 自分を知る

ご多分に漏れず、昨日はWBCの戦いに一喜一憂した。初めて日本サッカーがワールドカップに出場したときのような感情を抱いた。職員室では冗談で
「自分自身の愛国心を育むために・・・。」
などとホザいたが、当たらずとも遠からずや。


自分がもし将来海外に移住して、その地に永年居住することになったとしたら、こんなに日本を応援するかはわからない。でも、昨日の「その時」には胸の鼓動の高鳴りを感じながらテレビを見ていたのだ。仕事も手につかず。


やはり自分は日本人である。


当たり前だがそんなことを強く感じた一日だった。

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09読書023 クライマーズハイ

3連休の最終日の朝、『クライマーズハイ』(横山秀夫、文春文庫)を読み終えた。確か連休初日に読み始めたので、時間がかかってしまったが、最後はもう「一気読み」だった。


今年度、映画化されて、御巣鷹山と新聞記者、そして実際の山登りというキーワードは知っていたけれども内容はほとんど知らなかった。


読み終えた今、何とも言えない感情がある。


読み進めているときには寂しさ、切なさ、うまくいかないもどしかさを抱いていたけれども、最後には涙を流しながら読み終えたのだから不思議で仕方がない。ハッピーエンドというわけでもないのだと思うが、そこかしこの言葉一つに涙腺が・・・。これは年齢からくるものなのかわからないが、読んでよかったと思える一冊であったことはたしかだ。


同じ作者の『半落ち』も読んでみようかしらん。

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090324 ようやく一段落

今朝、4時に目が覚めた。ようやく本来の生活リズムに戻りつつある。


先週水曜日の卒業式が無事に挙行され、6年生を送り出すことができた。(と言っても担任ではないが。)転退任される先生方との束の間の宴、寂しさと毎年の経験であるが故の「慣れ」も感じ、正直、怖いと思った。


そんなこんなで突入した3連休も組合・組合・家庭と終わり、何もできずに終わってしまう。昨日でようやく転退任される方々への色紙の目処が立った。これで自分の仕事が始められる。そうだ、昨日は昨日で保育園の環境整備と保護者会臨時総会があったんだ。組合の会場使用御礼で隣の中学にも行ったんだった。あぁ、結構動き回ったのだなぁ。


今日からバッチリ始められるぞ! ・・・今日が仕事の締め切り日なんだけど。

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090317 思い出す過去

勤務校は明日が卒業式。県内の小中学校の中ではおそらく最後だろう。明後日が高校の合格発表だからだ。本校は小中併設校なので、明日が卒業式だが、併設でなければほとんどの小学校は今日が卒業式である。


今日の式練習を見ていて思い出した。初任校で担任した1年生が、今日の卒業式を迎えていることを。そう考えたら、本校の6年生の歌を聞いていると涙がこみ上げてきた。まともに見られなかったし、聞いていられなかった。


この場を借りて、おめでとう。


もちろん、今の自分には明日の卒業式が全てである。最高の式になるよう、自分の役割を果たそう。

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09読書23 哀愁的東京

『哀愁的東京』(重松清、角川文庫)を読んだ。


年度末ということを言い訳に、最近読んでいなかった。今日は電車で移動することがあったので、一気に読み終えた。でも、重松作品としてはあんまり読み進めていなかったなあと感じた一冊。


読んでいるときの印象が「重い」という感じがしたのが、今までとの違いだろうか。

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090309 本質

数日、更新が滞ってしまった。頭の中を組合関係のことがグルグル回っていて、久しぶりに脳内爆発状態。考えれば考えるほど、わけがわからなくなっている。


とにかく原点に戻るしかないのだ。しかし、その原点がわからないのだ。


事の本質がわかっていないためだ。何が本質なのか、何が後付のものなのか、それがよくわかっていない。聞いてみるしかない。

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090307 自分の大学受験

昨日の『受験勉強は役に立つ』を読んで考えたこと、思い出したことがある。


自分は大学を受験するときに、親から「東京に行け」と言われていた。(その代わり「卒業したら長野に帰って働け」ということもしつこく言われた)そこで大学受験は幅広い選択肢を持つことができた。まあそれでも何となく教育学部に進みたいという想いだけはあり、いろいろな大学の情報を集めた。ここで言う「集めた」とはどこかから取り寄せた、と言うよりは、高校においてある情報誌で自分が教育学部のある大学の頁を見た、と言う方が正しい。それでも今にして思えばこの行為は大きな意味を持っていたと思う。


というのも、自分が受けた大学はセンター試験の後の二次試験は一教科のみの内容だった。関東そして近県にはこのように受験できる大学が3つあった。ということはセンターで「失敗」しても何とかなる、という安心感をもって臨めたのだ。自分のように大学で何を学びたいかを考えずに、とにかく教育学部で免許をまずはとりたいと考えていれば、このような選択肢だってありえるのだ。


また、自分が入った大学の学科はセンター試験に社会を二科目課していた。こんなの他には東大とかの難関大学である。ここで「大変」と考えるか、「大変だけどひょっとしたら・・・」と考えるかが分かれ目である。自分は後者であった。多くの人が大変と考えるならば、自ずと倍率は下がるはずである。


この考えは見事的中。二次試験の倍率は実質2.0ちょうどだった。センター試験である程度の点数が取れていれば、かなり自信を持って臨める。センターと二次の配点は7:3だったのだから。


     ◆


こんなにたくさん思い出したことがあるのだが、こうやって考えてみると、自分の大学受験は「学力」というよりも「戦略」でくぐり抜けてきた感がある。そこには情報誌で集めた「情報」を自分なりに解釈して、どうすればいいかを考える「戦略会議」が毎日行われ、その「戦略」どおりに事を運ぶための授業で身につける「学力」が必要だった。たぶん、どれも大事な要素である。これが短期間で行われるものではなく、受験本番前の1年間かけて行われるのだ。長丁場である。実際、社会2科目受験というのは3月ごろに知って、4月にあわてて受験科目を履修することにしたのだ。もしこれに気づくのが5月だったら、全部独学で行うか、あきらめるかしかなかったであろう。


これらのことが今の生活に役立っていないか?


そんなことは大いに役立っている。すべては見通しを持って、どのように進めていったらいいかの繰り返しだからだ。目の前に用意された問題だけ解いていればいいなんてことはない。そしてまた、受験なら○○○点、という目安がはっきりあるが、実社会ではどこまでやればいいかなんてわからない。受験の方がよっぽど簡単であるし、やればやっただけリターンがあるのだから、青二才にとっては目の前のニンジンを追いかけるようなものだった。今は・・・。


自分なりの解釈として、「受験勉強は役に立つ」。しかし、それだけが全てではないことも確かである。

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09読書022 受験勉強は役に立つ

『受験勉強は役に立つ』(和田秀樹、朝日新書)を読んだ。


著者も文中に書いているが、これだけのことをストレートに書くというのはなかなかもって「すごい」と思う。けれども書かれていることの多くが的を射ていると思うだから不思議である。


果たして「学力」とは何なのか。「学歴」社会は今、どうなっているのか。いろいろなことを考えながら読んだ。その中でも、生きていくためのノウハウを受験勉強で身につけていく、養っていくという考え方は自分自身にもあてはまるだろうと思って読み進めた。

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090306 ドッジボール

昨日は書き込みをしていなかった。それに気づいたのが今朝。なんともはや・・・。自分にムチを入れつつやっていこう。


     ◆


さて、昨日は体育のある日。最近はドッジボールやらサッカーやらボールをつかったことをやっている。校庭がぬかるんでつかえる状況ではないので、今はもっぱら体育館。


入学したての頃はボールがなかなか手につかず、投げることすらままならなかった子どもたちだったが、今では男子だけでなく女子も投げたり、捕球したりすることができるようになってきた。自分は「野球投げ」と呼んでいるが、右投げなら左足を踏み出して5~6メートル先の相手に正確に投げることができている。


準備練習もそこそこにドッジボールは始まった。昨日は三番勝負。すべて紅組が勝った。最初は白組が全勝していたが、ここにきて紅組がコツをつかみ始めた。自軍ボールをいとも簡単に相手の外野に転がらせてしまっていた紅組だったのだが、どの角度で投げれば自分たちで長い間ボールを保持していられるかが体験的につかめてきたようである。


一方で白組は以前と同じようにただボールをがむしゃらに相手に投げているのである。それはそれでいい。しかし、勝てなくなってきたときにどうするかはこれからの課題だろう。


     ◆


男子も女子もボールをよけ、捕り、追いかける。一生懸命である。そんな姿を見て、担任バカな自分は、うれしくなった。

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09読書021 娘が東大に合格した本当の理由

『娘が東大に合格した本当の理由』(隂山英男、小学館101新書)を読んだ。読みたいと思いつつもなかなか中古物件にならず買えなかった。ようやく買えて月曜日に届いた一冊。


月曜日の夜、一気に読み上げてしまった。特にアウトプットに使いたいという意識はなく、どんどん読み進めたためだ。それでも娘さんの書いてある後半部分のさらに終わりにある言葉に惹かれた。


勉強するということは自由になるということだ


深い言葉だと思う。娘さんは高校の図書館でこの言葉に出会ったそうだ。本では以下のように続く。


時事ニュースを聞いて理解できない不自由、言葉がわからず外国人に話しかけられても何も言えない不自由、将来の選択が限られる不自由、そんな不自由から解放されたくて、勉強に向かったのかもしれません。


ここまで読んで、自分より10歳ほども違うのに、はるかに大人だと思わされる。驚くことにまだ続く。


前より少し自由になって思うことは、経験した不自由な感覚も忘れてはいけないということです。


脱帽である。

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090303 感動のお裾分け

今日は6年生を送る会があった。送る会終了後、用事があって職員室に戻ると机上に自分宛のファクスが。送り主は初任校につとめる方だった。


「声がでました!」


というタイトルだった。


     ◆


初任校で持った2つ目のクラス、たった1年間だけの担任だった。しかも入学したばかりの1年生。そのクラスに、なかなか「声」を出せない女の子がいた。「息の声」でなら話せたのである。それができた時でさえ、クラス中が大騒ぎになるほどだった。


その彼女が「声」を出せたという知らせだった。


彼女たちは6年生。小学校最後の授業参観日の折、小学校生活で初めて「声」が出せたというのだ。その様子が載った学級通信まで送っていただいた。読ませてもらう自分まで目頭が熱くなった。


昼休みになってしまったが、すぐにファクスを返信した。


     ◆


正直、6年生のこの時期まで声が出せないままでいるとは思わなかったが、それでも一つの大きな成長であることには変わりない。彼女自身に向けても、筆を執りたいと思う。

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090303 43歳

昨夜、長男が「バーモントドリンク」なるものをつくってくれた。某局のテレビアニメ番組(料理系)で紹介されていたものらしい。


長男「これ飲むと長生きするらしいよ。」
私「ありがとう。130歳ぐらいまで生きられるかな。」
長男「たぶん43歳まで生きられると思うよ。」


ありがとう。これで残りの寿命が13年だとわかりました。

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090302 ノリの違い

金土と組合関係の飲み会。2日連続というのがいいのか悪いのかは別として、同世代の仲間と飲む機会は貴重である。


土曜日の飲み会は県レベルの集まりなので、様々なところから集う。今回はノリの違いをかなり強く感じた。


一言で言えば、「若いなぁ」なのであるが、たかだか3~4歳の違いであるから大きな差ではない。自分は自分で爺くさいと自覚しているので、ノリの違いは仕方がないとも思っている。ではこのノリの違いが学校現場で子どもたちにどんな影響を与えるか、と考えると、看過できないとも感じたのである。子どもたちと「遊んじゃう」という感覚は大事にしなければならない。それは「ノリの良さ」でもある。では、自分は・・・。


飲みながらそんなことをずっと考えていた。ある意味、歳である。

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09読書020 人は見た目が9割

『人は見た目が9割』(竹内一郎、新潮新書)を読んだ。


教育の陥穽という観点から、一つ補足する。私たちは、子どもの頃小学校の先生に「人を外見で判断してはいけない」と教えられた。それは「人は外見で判断するもの」だから、そういう教育が必要だったのだ。


おもしろいなぁ、好きだなぁこういう考え方。日本人らしくない感じがする。さらに次のように続く。


逆にいうなら、「人を外見で判断しても、基本的には問題ない。ごくまれに、例外があるのみである」といってもよい。


ここまでくると納得すらしてしまう。


テレビで見る政治家をよく勝手に“判断”している自分だが、当たらずとも遠からず、かもしれない。

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